2016年03月09日
3月9日(水)昨日東京は20度越えの暖かさ、今日は朝から冷たい雨風で寒い。先日、久しぶりに霧を見た。三寒四温を繰り返し本格的な春になって行くようだ。
それにしても春の天気は猫の目のみたいに変わる。
初夏の様な陽気から今日は逆戻り、寒い!
体調を崩す方も多いのでは。わたしは幸運にも花粉症にも罹らず、
なんとか毎日を過ごしているが、近ごろもの覚え悪く、物忘れがややある。
年なんだからと割り切っているがチト淋しい。
でも思い出した事がある。
先週、TOHOの三期生との集まりで、油谷監督さんが会話の中で
イタリアン・ネオリアリズム(戦後間もなくイタリアでおこった映画運動)
のことを覚えていた。
なんと我が家にはその頃の映画論の本があった。
(今村太平著 現代藝術選書たぶん絶版?)
第二次世界大戦後のイタリア(ローマ)の荒涼とした都市風景と、
荒みきった人々の日常を淡々とドキュメンタリータッチで描いていた
ヴィトリオ・デ・シーカ( 『靴みがき』『自転車泥棒』など)
ロヴェルト・ロッセリーニ(『無防備都市ローマ』など)
その後イタリア映画はF・フェリーニ、
ミケランジェロ・アントニオーニ(『情事』『太陽はひとりぼっち』)
に引き継がれ、彼らはイタリアン・ネオリアリズムから出発したようだ。
そのころヨーロッパ映画は世界の最先端でいろいろ話題作が多かった。
フランスはヌーヴェル・バーグ、英米はニューシネマ。
毎日のように映画館や自主上映館を巡る日々だった。
映画を観終わってクラブの部室で先輩たちの話を聞く。
美学・哲学・文化人類学に話が及ぶと、
自分がいかに不勉強なのか思い知る。
60年安保で大きな挫折を味わった先輩が映画に回帰していたのだ。
学校の正規の授業は二の次で難しい本を読んでいた。
苦労して読んだ本の事を先輩に話すと、
「じゃあ、この本はどうかな・・・」と笑いながら紹介される。
先輩たちが良き先生だった・・・。
それから十数年後、縁あって教師になったが、
生徒たちにはなるべく難しい映画や本を紹介した記憶がある。
「先生、この本読んでみましたがさっぱりわかりませんでした・・・」
「そうなんだ!難しい事に挑戦するのはいいことだ」(軽いノリで)
それでも喰いついてくる生徒は素晴らしいと思った。
その時、わたしは無意識に学生時代の自分と重ねていた気がする。
知ることの果てしなさ、そしてその意味は何か。
不可知論の罠に引っ掛からないように指導したのだが・・・。
(・・・現象を越えること、我々の感覚にあらわれる内容を超えることは、知ることはできない・・・)
近ごろは難解な映画が少なくなってきたようだ。
かつてA・タルコフスキーが撮った『ストーカー』(1979年ロシア)のような
哲学的命題を映像化した作品が。
この映画は、まるで原発事故跡の様な
廃墟を案内するストーカー(廃品盗人)に記者と科学者が同行。
やがて禁忌の部屋にたどり着くが、
そこは人間のよこしまな欲望を絶対的に拒否する処だった。
登場人物の哲学的・宗教的議論もたちまち無に帰してしまう神秘の部屋なのだ・・・・。
1986年チェルノブイリ原発事故を予言したような
廃墟(ゾーン・隕石爆発跡)のシーンは恐ろしく美しいのだ。
そして、極めて退屈なのだ。
(廃線のトロッコで移動するシーンは必ず眠気が来る。『惑星ソラリス』にもある)
一瞬寝入って、起きても同じシーン。(5〜6分以上経過していた)
心地よい一時!
押し並べて彼の意識的なゆったりした映像は、
映画と言う夢の中に観ている者に夢を見させる。(無意識に下ろされる)
二重のレトリックを仕掛けているのかもしれない・・・。
油谷OBとの会話から延々と過去の事を思い出していた。
新しい事はさっぱり覚えられないのだが、
少し生きながらえていると古い記憶が甦ってくる。
年寄りの繰り言のように・・・・。(お退屈様でした)