2016年02月03日
2月3日(水)今日は朝から快晴。でも一歩表に出ると風が冷たい!寒い。明日は暦の上では立春。陽は長くなったが春はまだまだ、これから雪も有りそうだ。

今日は私の誕生日。
古希を過ぎてから、またまた時間が加速しているようだ。
暦年齢は意識しないようにしている。
今朝は赤坂に行く前に、
お茶の水で途中下車。
いつものモーニングタイム。
喫茶店も「穂高」だ。
一人誕生日のひと時、ブレンドコーヒー。
読みかけのミステリーを置いて窓の外を見る。
川の向こうの病院の建物が眩しく飛び込んでくる。
薄暗い店内とのコントラスト。
思わず目を閉じてしまう。

瞼の裡、頭の中には過ぎた日の記憶がボンヤリ浮き沈み、
ここまで人様のお陰で生かされてきた感じが、
年を増すごとに大きくなっているようだ。
久しぶりに友人、知人と会うと、
「・・・変わっていないね」と言われる。
本当にそうだろうか?
『方丈記』(鴨長明)によれば、
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず
・・・知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて
いづかたへ去る・・・・・・」
また古代ギリシャ哲学者ヘラクレイトスの言葉。
『万物流転』
この世にあるすべてのものは、常に移り変わると云うこと・・・。
一時期「自分探し」をする若者が多くいた。
「自分とは一体何でしょう?」と
合わせ鏡の無限の連鎖映像に思い悩む。
まるで玉ねぎの皮むきの様になってしまう。
それを考えている者はいったい何者?

昔の賢者は存在のはかなさをとっくに知っていたのに、
戦後の日本の教育は欧米の影響で、
自己の確立を目指す指針だった。
「わたしは」常に強い存在であれと。
「他者」は意識しない方がいいと。
わたしの細胞は常に入れ替わっている。
昨日の私とは違う存在の私がいる。
そのわたし の・ようなものが、
今日も生きているようだ。
過去は言葉で脳内変換されてデジタル化を繰り返す。
それは改変可能にするのも脳の役割。
記憶と疑似記憶が入り交ざるから、
自分の歴史はなかなか編みにくい。
生きていく上で人間は脳に色々な役割を与えすぎた。
それが人類の宿命でもあるらしい。
人の心が分からないと云う。
当然である。自分も時々刻々変化しているのだから。
今年は申年。
さるという文字の記念切手を買った。
こんなにも古代から猿を表す文字があったのか。

今、喫茶店でこの原稿を書いている。
同じ生き物でも犬や猫は、
もっと生きるための感覚が優れているようだ。
人に飼われていてもそれなりに生きている。
われわれ人間にはそれはあるのか?

前回の漢詩の書き初めの文言を繰り返す。
唐の詩人・李白の五語絶句「・・・孤雲独去閑・・・」
ポッカリ浮かんでいた一つの雲がひとり去って今は静けさだけが残っている。(私訳)
フット気づくとコーヒーが冷めていたのだ・・・。
