2014年03月12日
3月12日(水) 今朝は気温も高く春めいた南風が心地よく、このままスーッと春になれば良いのにと思いました。あの3.11からもう3年。被災地の復旧はまだまだの様です。

月日の経つのは
本当に早い。
3年前、私は
赤坂の事務所にいて大揺れの洗礼。
あの3〜4分間、
「もうダメか…!」と思わず口にしました。
その夜は6時間以上かかって帰宅。
深夜2時過ぎに
道幅いっぱいの人、人の流れで
溢れかえって、
家に着いたら汗だくでした…。
昨日、報道は一斉に
『あれから3年』特集。
改めて被災地の復旧の遅れが目立ちます。
“大きな揺れ”で済んだ私には
多くを語る資格はないが、
一日でも早い回復をお祈りします。
最重要な記憶、
絶対に風化させてはいけない…。

前回のブログで、
アラン・レネ監督の逝去から
私の映画青年時代の思い出が甦り、
「記憶」と「忘却」をテーマにした
『夜と霧』を取り上げてみたが、
その後
『ヒロシマ・モナムール』
『去年マリエンバードで』も。
2作品では
「見た」「見ていない」
「会った」「会っていない」がキーワード。
人間の記憶の曖昧さと
自分の都合の悪いことは忘れてしまう習性。
レネ監督は、人間は自分の都合のため、
生きていくためと称して
過去の出来事を単純に「消去」してしまう」
都合のいい存在としてとらえていく。
『ヒロシマ・モナムール』の主人公、
かつてナチの将校と恋仲で
戦後迫害されて過去があった。
「戦争」等悲惨な過去は
そうして忘れてしまう。
その後、ヒロシマを訪れた彼女は
原爆の悲惨な過去に涙する。
「私はヒロシマを見た」と。
日本人の彼は
「あなたはなにも見ていない」という。
目の前に悲惨な写真や陳列品を見て
同情しているだけなのだと。
「本当の過去と向き合って、
その時(ナチの残党として迫害された記憶)の自分と
対峙しなさい」
そのことで
本当の自分を回復できるはず。
“追体験の主体的意味”を
映画の時間と意識の流れがクロスワードされる。
ヒロシマの悲劇を観て
彼女の潜在意識が
十数年前の自分と同化していく…。

最初、私は
この作品が何を言っているのかよく解らなかった。
もちろん当時はVTR作品が無かったので、
追いかけて映画館を2館も巡った。
ノート持参でパンをかじりながら終映まで。
その頃、映画は私の先生、
そこから学んだことは膨大だ。
1年間に400本近く見ていたのだから。
(二本立て、三本立てはあたりまえ)
今はもうあんなに真剣に
映画と向き合うことが少なくなった。
少し寂しい気がするのは
年のせいなのか。
深く考えて視る映画が
少なくなったせいなのかもしれないが。
先月、
東放学園の元講師、
大島先生(歴史研究)が亡くなった。
先生からは生前、色々なご薫陶を頂いた。
私にとって“知の巨人”だった。
また一人敬愛する人が
逝ってしまった…、残念。
<合掌>
